ラーメン事業部誕生
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第2営業部部長
権田 和志
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右も左もわからぬままに。
他にはない店、他にはないおいしさを追求する味屋コーポレーショングループ。ケータリングから外食1号店の海王に続いて、こだわりラーメンの店「風林火山」(ラーメン1号店 現在は太陽軒)が1999年秋に誕生した。
その味づくりを任されたのが、当時入社3年目の権田和志。味屋コーポレーショングループの誰もがはじめてのラーメンならば、担当するものの年齢は関係ない。本気で頑張っている社員に任せようという考えからの抜擢だった。
はたして権田和志、その重圧をどうはねのけ、風林火山を成功させたのか。
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店づくりの端緒
全国を歩き回った。
10kg太った。そして、10kg痩せた。 -
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ノイローゼに追い込まれた日々
明日が風林火山のオープン。
だが、どんなにがんばっても納得できる味はできなかった。 -
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前日の決断
オープン当日。仕込んだ材料は底をついた。
大盛況のうちに長い一日は終わった。 -
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ベクトルは全国へ
「上海ドラゴン」、「太陽軒」。
米子で生まれた夢が今、日本全国へ拡がっていく。
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店づくりの端緒
全国を歩き回った。
10kg太った。そして、10kg痩せた。
海王での勤務から本社に戻って風林火山オープンに向けて準備を始めたのが、1999年1月。これまで味屋コーポレーショングループでは一切手がけていなかったラーメンの店を新規出店するという話でした。店長は統括マネージャーである常田さん。私はその下で実質的な店づくりと味づくりを言いつかって、その日から味の研究が始まりました。本社総料理長も、土井社長も、誰一人としてラーメンの経験はない。そんななかでのスタート。まず取りかかったのが、日本全国の繁盛ラーメン店へ出向いて、自分の舌で味わうこと。日本全国おいしいラーメン食べ歩きって言ったら聞こえはいいけど、1日に最低4軒。しかも食べるのはラーメンだけじゃない。メニューを開いて、「ここからここまで」という調子でオーダーして、3時のおやつが豚カツって感じで、残らず食べる。大変です。そのうえ、調査対象は味だけじゃない。使っている素材、店の雰囲気、サービス、接客、値段、設備等々、まさにお店丸ごとの調査です。そして、本社に戻れば、食べた味を自分たちで再現する。もちろん、それも自分で食べるわけですから、もう太る太る(苦笑)。
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ノイローゼに追い込まれた日々
明日が風林火山のオープン。
だが、どんなにがんばっても
納得できる味はできなかった。
日本全国食べ歩いたおかげで、視野がずいぶんと広がりました。おまけで、10Kgは太りましたけど、今度は心労と体力消耗で10Kg痩せる羽目に…。というのも、味の研究の次は、自分たちだけの味を創造しなくちゃならないわけです。「これが風林火山の味だ」というものを作り上げなければならない。ものすごいプレッシャーです。毎日毎日、海王の裏の工場と呼んでいる建物で、一人、500リットルの蒸気釜を使って朝から夜まで仕込みにつぐ仕込み。夏など、室温が50度を超える暑さ。10分とはいられない環境なんですが、それでも逃げるわけにはいきませんよね。風林火山オープンに向けて店舗オペレーション研修がはじまっても、まだ味が決まらない。オペレーション研修に参加する余裕もないわけです。こんな状態でオープンして、はたしてうまくいくのか…。不安と焦りでなかばノイローゼ気味にもなりました。
風林火山のオープンは9月8日。主力であるラーメンの味が決まったのは、ほぼ、その前日でした。
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前日の決断
オープン当日。仕込んだ材料は底をついた。
大盛況のうちに長い一日は終わった。
すべてに手探りなまま、ついに1999年9月8日を迎える。前日はほとんど眠れませんでしたね。といってもその頃は、眠れない夜はもう慣れっこみたいになっていましたが…。目をつぶっても、不安ばかりが頭を駆けめぐるんです。もう、ごはんも食べれないくらい。で、オープン当日、店舗研修に参加できていなかった私は工場で仕込みに専念。ちょっと時間をつくって外にでてみると、海王の店長が駐車場の交通整理をしているのが見えました。店内をのぞくと、たくさんのお客さまがおいしそうにラーメンを食べている。
備え付けのアンケート用紙には、「米子で一番おいしい」という回答が見える。嬉しかったですね。正直、ジンと来ましたよ。
ハプニングといえば、余分に用意していたチャーシューが何と開店から2時間で売り切れたこと。これには驚きました。これまた初体験ですから、なかばパニックです。それでも、何とか初日を乗り切って、以降は小さな問題はあるにしろ、順風満帆といったところでしょうか。
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ベクトルは全国へ
「上海ドラゴン」、「太陽軒」。
米子で生まれた夢が今、日本全国へ拡がっていく。
追いつめられて、苦労してオープンした風林火山。その成功の陰にはたくさんの人たちの協力がありました。それでも、風林火山は私がつくったんだという自負にも似た想いがあります。直接の上司である常田マネージャーは、「責任は私がとるから、好きなようにやれ」というメッセージを投げかけてくれました。社長は、悩みをひとつづつ明快にクリアしてくれました。出入りの業者さんたちも休日返上で応援してくれました。多くの人たちに支えられて、今の私があるんだと思います。
そして今、風林火山の成功を日本全国へ展開しようという動きがあります。「上海ドラゴン」「太陽軒」のFC全国展開です。現在はこれら2店の味づくり、商品開発、仕入れ等、全て任されています。それにしても入社から数年のひよっこに、ここまで重大な仕事を任せてくれる社長、すごいのか無謀なのか(笑)。もう「風林火山」はありませんが、それが基礎で「上海ドラゴン」「太陽軒」があります。さらに地域貢献のために名物料理を作る会の一員として「鬼太郎まぐろラーメン」を開発し、全国へ境港のまぐろを発信しています。全国の人々に私たちが作ったものを食べていただくという夢の実現に向かって着実に進んでいます。